昭和四五年四月八日
X御理解第四節 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるやうになった。此方金光大神あって、神は世に出たのであう。神からも、氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である。金光大神の言ふ事に背かぬやう、よく守って信心せよ。まさかの折りには天地金乃神と云ふに及ばぬ、金光大神助けて呉れと云えば、おかげを授けてやる。」
これはまあ、この通りの事である事は皆さんもよく分かりますね。金光さまの信心ちゃ、どげな信心ですかと、皆さんが問われた時に、教祖生神金光大神の云うなら、実意丁寧な御信心に、天地の親神さまが感じきられた。そして金光大神にいわゆる神頼みをなさった。そこで金光さまは、いわゆる教祖さまは、その事を自分の言い分といったやうなものは、全然おっしゃらずに、親神さまのおっしゃる通りの事をです。承知司りましたとして、お取り次ぎの御用をなさるやうになった。いわゆる立教神伝を頂きますと、そこんところが分かる訳です。そんな事から、お道の信心がいわゆるお道の信心の発端でありますねぇ。 ですから、神さまからも金光大神は恩人と、又はお取り次ぎを頂いて、お願いをしておる。私共からもやはり、そのおかげで天地金乃神のおかげを受けられるやうになったのですから恩人である。此方金光大神あって神は、世に出たのである、とおっしゃる。双方からの恩人である金光大神さまを、そのやうに頂いておると、だから金光さまの信心とはそうゆう信心ですね。
天地の親神さまのお頼みをひた受けに受けられて、そして世の中の難儀な氏子の救済、いわゆる取り次ぎ助けをして下さる働きを云うか、そうゆう御用に専念して下さった。その金光さまの後を二代さま、三代さま、現四代さまとゆうやうに、そうゆう御用が、めんめんとして今日迄続いておる、百十一年とゆう間、続いてきとる。
そうゆうお取り次ぎの働きを頂いてきておって、おかげを頂いていっておるのが金光教の信者であると。だから、ここのところは、ここ迄は分かりますね。両方からの恩人は此方金光大神であるとゆうところ迄は、皆さん、説明しなくても分かる訳ですよねぇ。
Z『そこで、そんなら金光大神の言う事によく守って信心せよ。まさかの折りには天地金乃神と言うに及ばん金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやると。だから、この辺のところから、云うなら金光さまの御信心ぶりといったやうなものが本当に身につかなければいけないとゆう事を思います。只、もうまさかの時には、「金光さま!」と云うと、言えばおかげをやると云うのじゃないのです。常日頃が金光大神の言う時に背かぬやうよく信心して、それを守って信心せよとゆうところが本当なんです。それを守っていくうちに、金光さまの御信心ぶりとゆうものが身についてくるのです。どこから見ても、なる程金光さまの御信者と、云われるやうな信心ぶりが段々出来てくるのです。いわゆる実意丁寧神信心が出来てくるやうになるのです。その辺のところが、いわゆる御信者らしい、御信者とゆう事になるのでしょうか。そこで、金光大神の言う事に背かぬやうよく守って信心せよとゆう事は、仲にそれがそうそう出来ませんけれども、ここだけはといったやうなものがね。私はあれば、おかげが受けると思うのです。これだけは、金光さまの御信心を徹底して頂いておるんだとゆうものがなからなければならない。だから、よく守ってとゆう事は、徹底してとゆう事だと思うのです。』
はたして皆さん、だから、これは毎日お参りせよとゆう事じゃないのですよ。もう十年も、二十年も続けて、信心しよるとゆう事だけじゃないのですよ。何十年信心したっちゃ、よく守って信心をしておるとは限らんのです。だから、金光さまの御信心を頂くやうになったら、これだけは、自分のものになった、自分の身についたとゆうものが果たしてどの位あるか、お互いがひとつ反省してみなけりゃならんもんじゃないでしょうかね。
まあ容易う言ってみましょうかねぇ。第1金光さまの御信心を到しますとね日柄方位を言わんやうになりますよねぇ。又、言わんで済む私共にならなきゃいけません。天地の道理が分かるのでございますから本当に今迄信心のなかった時には、日柄がよいのと悪いのと建築をするのに裁ち物をするのに旅立ちをするのに、そうゆう迷信を私共が信じて行うておったとゆう事はね、道理の上から頂きますと、言うだけではない、その事が天地の親神さまの心に適わん。もう、これは実を云うたら大変な事なんですよねぇ。御理解三節の「神仏の宮寺氏子家宅皆神の地所、その理知らず日柄方角ばかり見て、無礼致し、前々の巡りで難を受け居る」とおっしゃっておられる。
そうゆうやうな事は大変な天地に対する御無礼なんですよ。それを昔から言うてきとる事じゃから、結婚するなら黄道吉日を選ばなならんとか、もう死に生きの事にでもです。今日は例えば友引きだから、お葬式は出せんとか。
もうそうゆう事を例えば言う事はね大変な御無礼になる事をひとつ、道理の上からでもはっきり、ひとつ分からして頂いてね。そうゆう事は問題ではないとゆうだけのひとつ信念を持ってもらわなければならんのです。だから、これだけは金光さまの信心しとるなら、スッキリしなけりゃなりません。
先日も、ここの近所の方ですけれども、娘さんが縁につかれます。それが丁度四月四日の日。その日は暦の上ではよい日柄だったらしいのですねぇ。けれども、その四月四日とゆうのが、どうも四が二つもつく訳ですよ。その方はある教会で、もう永年信心をしておられた方なんですよ。
「まあ、ああた達のやうに永年金光さまの信心をし、お話しを聞いておられる方が、そうゆうやうな事に迷われてはいけませんよ。相手の方は信心がないのだから、相手の方がとやこう云うなら、仕方がないけど、信心のあるこちらの方がそうゆう事云うちゃあ、もう定まっておるものをそんな事言うちゃあいけません。又、神さまにも御無礼になります。四日の日は私共、御本部参拝させて頂いて丁度、第1日の御本部参拝の日ですから、私がちゃんと金光さまにも、御本部ででもその事はお願いしておきますから、そんな事は思わずに安心しておかげを頂きなさい。」と、申しておりました。
昨日、おととい、そのお礼に出てみえられました。そして、「もう本当に四月四月ちや、どうも縁起の悪か日と思いよりましたから、先生が御本部参拝の日とおっしゃったから、それを聞いただけで胸がスッとしてから、御本部参拝の御大祭の初日の有難い、お芽出度い日に、うちの娘が行くと思うたら、心がスッキリ至しました。主人や子供達にもその事を申しましたら、御本部の御大祭の日なら悪か日じゃなか」と思うておかげを頂きましたとゆう訳です。そのスッキリとする事がおかげですけれども、それを言うとゆう事がおかげですけれども、それを云うとゆう事がね、方一天地に対する御無礼だ。
ですから、本当に天地の道理を聞かして頂くとね、もう愚にもつかない事なのですから。そうゆう事だけは全然言わんで済むやうになりましたと、ゆうところが出来なければなりません。金光さまの信心はしとるけれども、昔から言うちゃる事だから、やっぱり守らなきゃ、やっぱり息子の時には暦を見てから、よか日を選ぶ。もう、そうゆう事はね、よか日を選ぶとゆう事は、もう悪い日が有るとゆう事なんですから、それだけでも、御無礼になります。
だから、そうゆう事をね、もう見るやうな事では金光さまの御信心ぶりとゆうやうなものは表れないです。暦の上段、下段見るに及ばずと教祖さまはおっしゃっておられますやうに、もう暦を見ろうかとゆう心が金光さまの御信者じゃないです。
ところが案外根強う金光さまの御信心しよったっちゃ、言う人が有るとゆうやうな事があっては、もう既に金光大神の言う事を守っていないとゆう事。それは、徹底しなければいけんのです。万事万端神さまの御都合、お繰り合わせを頂いて、その事が有り難いとして頂けれるやうなです。御信心が本気で出来なければいけません。もう、それ言うたら、もう、いよいよいかんとですよ。御無礼になるとです。神さまに‥‥‥。
迷信から解放される。もうこんなに有り難い事はないです。迷信にとらわれる。こんな窮屈な事はありません。
お道の信心させて頂く者は、御地内をみだりに穢すなよともおっしゃいます。私は、ここの総代さん方と一辺、一緒に旅行した事がある。そしたらある総代さんが、駅から降りたら、もうつるつる、つーっと行きなさるから、どこに行きなさるじゃろうかと思うとったら、小便まりに行きなさる。駅の事だから、そこに便所があるにもかかわらず、すぐつーっと畑の方に行ってから、わざわざあげん遠か所迄行って小便まりなさらんでん。こらこらとこっちから、おらぼうごとあったけれども、ほんに私の教導が木行届きだなと、総代さんをしながらです。立ち小便するなんてん。そこにね、山か川に行ってから便所も無い所でもよおしてきたと云うなら、まあ、お詫びしてからとゆう事もあるけれども、駅から降りたばかりのところを、駅にはちゃんとそこには便所があるにもかかわらず、もう全然、そんな事考えていない訳です。御地内をみだりに穢したりしちゃならんてんなんてん。天地の親神さまを拝みよるなんてん、全然頭に置いてない訳です。
いきなり、さんばちにパーッとつばをはいたり、子供に云わばおしっこをさせたり、だけではない。自分自身が平気で立ち小便するといった事ではね、もう金光さまの御信心ぶりをもうそれだけで、金光さまの信心をしておるとは言えません。
いつでしたか、御本部参拝の時に座席のすぐ下の所である教会の総代さんが小便まりよんなさった。そらもう合楽の者はびっくりしてから、それこそ便所がちゃんと側にもあるのにもかかわらず平気で、それをやっておるとゆう事はです。これは合楽ばっかりではない団体の旗を片方に持ってるんですよ。
もう本当に金光大神の言う事をよく守ってとゆう事は、そこんところを徹底する事ですよ、だから、いっちょん難しい事じゃないでしょうが。
今日私は容易う容易う、これだけは守り抜いておる。徹底しておるとゆう事のところを皆さんに聞いて頂いた。金光さまの御信心を頂きながら、迷信から、とらわれておる事はないか、それでは金光さまの御信心ぶりではありません。 信心する者は、御地内をみだりに穢しちゃならん、それを徹する。
私の福岡の信心時代に真名子さんとゆう、おばあさんがおられました。この方は畜膿症で、永年難儀をしておられるところを天地の大恩を聞かれてね、その帰り道に、道に大便をしちらかしてあるのを見て、本当に知らん事とは言いながら、神さまのお体をこんなに穢してよごして神さま相済みませんと、今聞いたばっかりの天地の大恩が身にこたえておった訳です。
だから、それをきれいに掃除して清められて次の電車通りに出られる時に、もう鼻がストストするごとなっとったと、ゆうおかげを受けたおばあさんです。只もうその事に徹しぬいておられます。
そこの家には、もう教会から二里位離れた所におられますから、そこの近所にです。やっぱり三、四十人の人が夜の御祈念には集まって来ておった。そしてその真名子さんとゆう方が、いろいろ自分の受けられたお話をされたりすると、どんどん病人が助かった。
もう私も、一辺、丁度行きましたら大掃除があっておりました。それから、私お手伝いさせて頂いて、雑巾、バケツをですね、表にまこうとしようとしよったら、「大坪さん、大坪さん」と云いなさいますもん。夏の事ですから、雑巾、バケツの水を表にまこうと思うたんですよ。そうゆう汚いものを神さまの体にふりまくやうなもんじゃから、ここに捨てて下さいと、言いなさいますもん。もう雑巾、バケツの水でも、例えば道にふるでもね、徹底しておられる訳ですよ、云うならば‥‥‥。
ちょっと、あんまり変くつなやうにありますけれども、私は金光大神の言う事を背かぬやうに守るとゆう事は、徹底して守るとゆう事は、その位に徹底したものがなければ、いけないとゆう事ですよ。
はたして、どうでしょうか、お互い、御地内をみだりに穢すなよと云われる事でもです。唾をはいたり、きたないものをしちらかしたり、しておるやうな事があるやうな事では、金光さまの御信心ぶりとゆうやうなものは、身につきません。よく守ってとゆう事になりません。
商売をするなら、売り場、買い場と云うてと、売り場、買い場を大事にせよと、ゆうのがどうゆう事でしょうか。勿論、これは人が拾銭で売るものなら八銭で売れとゆうやうにも、云うておられますけれども、これは私は商売させて頂く者がねぇ、いわゆる自分中心ではなくてね、云わば神さま中心、云うならお客様本位でお商売が出来ておるかどうかとゆう事だと思います。そこに利とか得とか云わんのですよ。
そこにお客様本位の商売が出来る、そこからです。そこから、おかげが受けられるんですよ。人が拾銭で売るものなら、拾壱銭で売る方がおかげと思うとると、いったやうな商売の仕方ではいけません。
昨日でしたか、北野の秋山さんがお届けをしておられます。相当遠方な所のお得意さんに化粧品をたった二品持って来てくれとゆう所があった。単車で走ってガソリン代もないとゆう訳なんです。それでも、ここでね例えば、得とか損とかゆう事ではいけないと思うて、やらせて頂こうと思うた。
そしたら長男の光幸さんがそんなら僕が行ってやろうと、そんかわりその単車を持っとりますから、ガソリン代はお母さんあんたが出さんとならんよと、そらもう出すどころじゃないか、儲けの段じゃなかばってん、お客さんじゃから、やっぱ大事にさせてもらわんならんから、そんならあんたが持って行ってくれんのと云うてから行ってもらうた。
そしたら、もう単車ですから、アッという間に行って帰って来てから、ニコニコしとる。大変喜びなさったと、喜びなさっただけじゃない。あんたが来てくれたなら、と云うてから、五百円おこづかいをやらしゃった。それでニコニコして帰って来た。まあお母さんとしては、ほうらの、と云うとこですたい。信心ちゃあ、ここばい、と云わば身をもって教えていける。もうそげなこつしよんなら損する。とゆうやうなのではなくて、そこにお客さんを大事にするとゆう事。いわゆるお客さんを中心にして考えるとゆう事。それはこうゆう有り難い結果になるとゆう事をです。云わば、子供にも教える事が出来たとゆうのである。向こうとしても、そらもう注文なしたもんの、わざわざたった二つどん持って来てもらうとは、思わなかったんですよ。よっぽど嬉しかったんですよ。
そうゆういき方でいくなら、もう絶対、化粧品は秋山さんの所と決まってしまうでしょうねぇ。だけでは、そこには次のそうした働き迄頂いておる。とゆうやうにですねぇ。金光さまの信心させて頂くならばです。もう、本当に商売をさせて頂くなら、売り場、買い場を大事にせよとか、人が拾銭で売るとこなら、八銭で売れとか、ゆうなら神さま中心とゆう生き方、神さま本位の生き方、信心本位での生き方、云うならお客さん本位での生き方での商売がはたして出来ておるのかどうか。
信心させて頂く者がです。いわゆる天地の親神さまと云うて拝みながら、天地を穢すよごすやうな事をしてはおらんか、そうゆう事はもう徹底して頂きぬいておると、金光さまの御信心するなら、もう金光さまの御信心する人は絶対日柄やら方位やらは云わっしゃれんですもんねぇと、信心せん者の方が知っている。
それにです。いつは何の日じゃもんのと、もし金光さまの信心する人が云うたとしたらです。それこそ、おかしい結界になるでしょうが。私達金光さまの信心頂いとるから、おかげで日柄方位だけは、云わんで済む、と徹底して云えるものが出来ていきよらにやいかん。
私はね、金光大神の言う事を背かぬやう、よく守って信心せよと、おっしゃるのはね、そのやうな事だと思うのです。そんなら、私がその三ことをお申しましたがです。
せめて、この三事位です。徹底して守っていくとゆうやうな信心のところからです。まさかの時には天地金乃神と云うに及ばん金光大神助けて参れと云えばとおっしゃるやうなおかげがそこに授けられるのだと、私は思います。
只もう日頃は、金光大神のおっしゃる事は、ひとつも守りもせんのに、只まさかの時に金光さまだけではいかんてゆう事、私は御理解四節のところは今日は、ここのところが一番大切な所だとして皆さんに聞いて頂いたんですねぇ。 金光大神の云う事に背かぬやう、よく守ってとゆう事はせめてこれだけは徹底してとゆう事なんですよ。信心させて頂く者が信心の無か者と同じやうな、生き方をしながら、そして、口だけは、金光さま、金光さまと唱えとったっちゃねぇ、おかげの頂けるはずはない? それは、十年、二十年参っとったちゃ駄目だ? ひとつよく守って、徹底して、そこのところを自分の身につけていくおかげを頂いてです。金光さまの御信心ぶりが、云わば身についておかげを頂かせてもらう。そこに初めてです。まさかの時には、金光大神と云えば助けてやるとおっしゃるやうな、おかげを頂けると思います。
今日はひとつ、よく守ってとゆうところ、しかもそれは徹底してとゆうところ。私は今日は、三事申しましたがね。これだけの事ではありません。
もうひとつ、それから簡単な事が有りましたねぇ、人の悪口を云う者がようおるが、人の悪口を云よる時にはです、出来るだけその場を逃げよ、とおっしゃるやうな御教がありましょう。
だから、これなんかでもです。本当に守らせて頂く事は、有り難い事だと思うんです。人の悪口を云う、いや悪口を云よる人があったら、その場を逃げるとゆう、その位の修行はです。出来なければいけんけれども、人の悪口でも云よると、かえってそれをかたって聞こうごたる気持ちがあるやうな事では、金光さまの御信心ぶりと、いったやうなものはいつ迄も身につきません。
今日の三事、四事こうして申しました。せめて、その位ぐらいの事はです。ひとつ本気で身につけていかなければいけないとゆう事ですよね。どうぞ。